「オシャレであること」「ファッショナブルであること」

 これを読んでる人のなかにもいるかもしれませんが、ぼく昔、この人オシャレだなって思う知人(以下、オシャ男)に「オシャレだね」って言ったら鼻で笑われたことがあるんです。あんまり鼻で笑われるなんて経験ないから当時結構びっくりして、なんで鼻で笑われたんだろうとしばらく考えていたんです。で、最近になって、なんとなく理由がわかったので、そのことについて書こうと思います。

 

 結論から言うと「オシャレであること」と「ファッショナブルであること」は似て非なるものと気がついたことで、ぼくのもやもやは解決しました。そもそも、人によってなにをオシャレと捉えるかは違ったりしますよね。白黒な服が好きでクラブで騒ぐことにオシャレさを見出す人もいれば、自由が丘に出かけてカフェでお茶することにオシャレさを見出す人もいます。ぼくが鼻で笑われたのも似たようなことで、ぼくみたいな人間を鼻では笑うことに一種のオシャレさを見出す人たちがいるということに気がついたのです。これから、ぼくはそういう人たちをこう呼ぼうと思います「ファッショナブル人間」と。

 

 オシャ男とは別の、ファッショナブル人間に分類されるであろう、知り合いのブログを読んでいてもやもやが晴れたので、彼が書いたブログの一節をそのまま引用しちゃおうと思います。以下引用

ファッションとは元来差別出ると思う。日本においては近代まで階級に応じた服装が定められていたし、現代においても、スタイリッシュな着こなしで他者との差をつけること、いうなればおしゃれな人としか付き合わないこと、おしゃれなカフェにしか行かないこと、おしゃれな音楽しか聴かないこと、それを顕示すること。ライフスタイル全般において、ファッショナブルを目指すことは差別であると思う。

  とのことなのです。ぼくはこれを読んでなるほどそういう考え方なのかと合点がいきました。ファッショナブルである人は、他人とは違っていること、彼ら的におしゃれでないものには触れないこと、を信条としているようなのです。つまりですね、当時オシャ男にとってぼくはオシャレな人間ではなく、排斥しても構わない対象だったってことなんですね。なんか言葉にすると一層虚しい気持ちになりますね、、。

 

 でも、ぼくも笑れっぱなしは悔しいのです。だって、ぼくも自分のことそれなりにオシャレだと思っているから!ファッショナブル人間だけがオシャレってわけじゃないんだかんな!!みてろよ!!!

てことで手始めに「オシャレ」と「ファッショナブル」を辞書で調べてみました

オシャレ:服装や化粧などを洗練したものにしようと気を配ること。洗練されていること。また、そのさまや、その人。

ファッショナブル:流行の先端をいっているさま。当世風。

 てことらしいです。この定義からすると、「オシャレであること」は洗練されていることを目指そうとする姿勢で、「ファッショナブルであること」は流行という時代の流れの先端にいようとする姿勢、ってことになりますね。流行の先端にいるってことは、やっぱり人とは違っていることが一つ条件になると思うし、ファッショナブル人間がダサい人と付き合わないことにも納得がいく気がします。一方で、一方でです、もう一度言いますが、オシャレは洗練を目指している姿勢なんです。洗練したものを身につけたり、洗練したものに触れたり、洗練した人と話したり、連呼するとちょっと胡散臭い感じがでますが、何が言いたいかというと、流行の最先端でいることはオシャレの必要条件ではないということです。オシャレであるか否かは、洗練されているか否か。そう考えるとやっぱり「オシャレであること」と「ファッショナブルであること」は似て非なるものだと思うんです。

 

ぼくは「オシャレであること」を目指したいと思っています。なぜなら、ファッショナブルであるためには、ファッショナブルでないものを排斥する必要があるから。だってそれは、裏を返せば自分が知っている世界でしか行動しないってことだし、その中でもこの部分しか認めませんって言っているようなものだから。ぼくは自分の知らない世界をもっと知りたいし、小さい頃からの信条が「みんなちがってみんないい」なので、ファッショナブルな考え方とは相容れないのです。それになにより、多様であることを認められる人のほうがオシャレじゃね??って思うのです。

 

ブログ3記事目のわりに長い文章を書いてしまった気がします。結構疲れた。今度はもうちょい気楽で手軽にかける題材にしようかな。それではまた。